こんにちは!占い師の光子です。
昨日、出かけようとしている時にふと見ると、待乳山聖天さんの、お札が落ちていました。
簡単に落ちない位置にあったはず&誰も触っていないのに、なぜか床に落ちていて、
「どうして落ちちゃったの?どうしよう…」
と、歓喜天さまに申し訳なく思いながら、元の位置に戻しました。
久々に手に持ったお札は、いただいてから随分と経つというのに、変わらず強いエネルギーで、歓喜天さまのすごさと、お怒りではないのを感じて、安堵しました。
そしてふと、
「あ、今日浅草行けるな。行こうかな」
と思ったのです。
出かける用事は、子どもを待ち合わせ場所に連れて行くだけ。
それならば、その後は私の自由です。
これからしばらく〈占い処たまる〉での鑑定をお休みしますが、これまで鑑定させていただけたことの、お礼参りに行っていません。
思い立ったが吉日と、観音さまと歓喜天さまに、ご挨拶に行こうかな?思ったのです。
とはいえ、他に計画していたこともあったので、神棚の前で出かける挨拶をしながら、図らずも
「浅草、どうしようかな?」
と考えてしまいました。
すると、天照大御神さまのお声で
『行きなさい』
と聞こえたのです。
なんだかわからないけど、今日は浅草に行く必要があるらしい。
というわけで、浅草に出かけました。
ところで、鑑定中のことは、覚えていないことが多い私ですが、実はここ数ヶ月、鑑定中のことを覚えていることが何度もありました。
【覚えてない】=【極まっている】(この文章を書いている私ではない)
【覚えている】=【この文章を書いている私である】
ということなので、覚えている時の鑑定は、生身の人間としての私が話しています。
覚えていない時は、知らぬ間に結論に至っていて、お客様が笑顔になられているので、鑑定の内容の良し悪しを、後から考えることはありません。
(あまり思い出せないし)
けれど、覚えている時の鑑定は、
「お客様にとって価値のある時間になったかしら」
「もっと他に伝え方、言い様があったのではないか?」
と後から反芻してしまうのです。
生身の私が鑑定していても、〈繋がる〉ことや、御神仏から
『これを伝えて』
と鑑定中に受け取ったことはお伝えしているので、どこまで鑑定の内容に違いがあるかはわからないのですが、確かに、覚えている鑑定は存在します。
そして先日、お二人でいらしたお客様の鑑定を覚えているのですが、鑑定中に
「大切な人の突然の死の場面に、これまで3回も立ち会った」
とおひとりがお話しされたのです。
ご自身も亡くなっていてもおかしくない、事故や災害のケースもあったそうで、
「なぜ自分は生き残ったのか」
「3回も立ち会ったのは、何か理由があるのか」
と問われました。
覚えていない鑑定の時の私だったら、気の利いたことが言えたかも…
でも、生身の人間の私は、人の死の理由の答えを持っていません。
既存の信仰やスピリチュアルで言えば、因果応報や生まれる前に決めてきた、など言えるかもしれません。
けれど、確かではないことと、実感を伴って信じられないことは話せない私なので、そんなことは言えないのです。
母を見送った経験からも、死そのものが怖いことではないらしい、というのはわかっています。
けれど、喜ばしいことなのかというと、それもどうも違うような気がします。
たぶん、人間がイメージして、悲しむ死よりは、ずっと軽やかなものが、見えない方々にとっての死なのですが、そこにどんな理由があるのかは、わからないのです。
でも、生きている理由は、きっと、
「まだやることがあったから」
でしょう。
それは、たぶん私は死ぬことになっていて、病気という形で回避していただいた、という自身の経験からも、そう思います。
(詳しくは→満足するにはどうするの?)
結局お客様には、少し考えた後に、
「その経験をすることで、『生きてることは当たり前じゃない』と実感を持って人に伝えることができますよね。それこそが、経験された意味じゃないでしょうか」
とお話ししました。
なんとも月並みな…
気が利いてない言葉ですね。
そして、この時のことを、それから何度も何度も、考えてしまっていました。
こちらの方、神も仏も信じない、ともおっしゃっていて…
想像に難くない、と私は思ったのです。
「どうして守ってくれなかったのか?神様も仏様も、守ってくれてもよかったものを…」
と思うのは、とても自然なことだと思ったのです。
そんな、心にずっとかかっていることがある状態で、出かけた浅草。
「もしかして、観音さまや歓喜天さまが、死の理由を教えてくださったりするかな?」
なんて、ぼんやり思いながら出かけました。
すごい人出の浅草寺でお参りしたのち、待乳山聖天さんへ。
結果的に、どちらのお寺でも、想像したような、観音さまや歓喜天さまが理由を教えてくれるなんてことは、なかったのですが、でも…
待乳山聖天さんで、思わぬ方にお会いしたのです。
それは、理由を問われたお客様と、一緒にいらしたお客様でした。
手水屋で前を見ると、
「あれ?こないだの方かな?」
と気づいたのですが、声をかけるのは、気が引ける…(^^;)
占い師は、お客様の人生を輝かせるための黒子(と私は思っているので)、声をかけるなんてご迷惑でしょう…
とスルーしてお参りしにお堂へ向かいました。
ところが歓喜天さまは
『声掛けろ』
とのこと。
いやいやいや、あかん…
お相手にも都合が、そして私にも恥じらいがありますって…
落ちてしまったお札を返しつつ、お堂を後にしようとすると、なんだか、何か、足りてない感じ…
再度、歓喜天さまの前に座って、手を合わせると
『声掛けろ』
うむむ、2回目…
これは、無視できない…。
(そもそも御神仏のおっしゃることを無視しようとする私、どうなんだ(^^;) )
お堂の外で、タイミングを待って、声をお掛けしました。
家の近く以外で、知ってる人に会うって、そうあることじゃないですよね。
しかも、鑑定させていただいた方に、鑑定以外の場で偶然お会いしたのは初めてでした。
「見たことあるなって思ったんですよね!」
とのこと。
きっとビックリされたかな?
(私はとってもビックリしました)
お会いしたことや、声をお掛けしたことに、何か意味があったのか…?
全然わからないのですが、お札が落ちたり、天照大御神さまもお勧めされたり、何かこうなった方がよかった何かが、あるのかな?と思ったのです。
そして帰路で思ったのは、
『理由は教えられないけど、そばにはいて、見守っているよ』
ってことだったのかなぁ、ということです。
まだまだ発展途上の一人の人間の私には、御神仏が何を考えて、何を意図されていたのか、わからないことの方が多いです。
でも、何かの形で、御神仏の、そしてお客様のお力になれることが、やっていけたらいいな、と私は思っています。
うむむ、着地できないお話です。
だって、わからないことの方が、多いものね。
お付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m
あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。
光子でした。
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人の死の理由を考える。そして浅草に出かけたこと
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