Categories
私の思う、世界の仕組み 私の話

健康になって私がしたかったことと、職場で見つけた光の話

こんにちは!神様とご縁を繋ぐ 光子です。


私事ですが、この10月から、また外にお勤めに行くようになりました。

脳脊髄液減少症の闘病生活が始まってから4年、想定外の回復に恵まれて、また普通の生活が送れるようになりました。

個々人で症状が様々な脳脊髄液減少症ですが、共通しているのは、
「座ったり立ったりしている状態を続けていると、症状が出てしまう」
ということで、私の場合はめまいがひどく、症状が強く出ていると、自分で立ったり歩いたりできなくなりました。

そして症状の前兆のひとつに、右手の震えがあって、ただ震えるだけならいいのですが、力が入らなくなるので、字を書いたり、ハンコを押したりすることもできなくなり…

そんな私にとって、バイトも含めて、外に働きに行くというのは、とんでもなく難しいことで、健康な人が羨ましい!というのが、長らく感じてきた思いでした。


そんな過去もありつつも、この8月に劇的に症状が回復して、そして子育てのタイミング的に、
「安定的に稼いで、子どもの教育資金にしたい」
と思っていたところに、思ってもみなかったご縁が繋がりました。

これまでもおかげさまで、子どもたちと普通に暮らすには困らないお金に恵まれてきましたが、
「もっと勉強したい!」
という子どもの希望に応えるには、これまで以上に収入が必要。

そんなことを思っていた時に、ある夜、以前の職場で働いている夢を見ました。


これまでにも、病気になる前に働いていた職場で、仕事をしている夢は何度も見て、その度に
「夢の中では、あんなに普通に動けるんだな」
と不思議なような、もどかしいような気持ちになっていました。

以前の仕事は、人間関係的にめんどくさいなと思うことはありましたが、仕事の内容は好きで、やりがいもあってと、
「仕事と家庭の両立が厳しいー!!(しかも実はずっと病気だった)」
というもどかしさはありましたが、好きで楽しい仕事だったんですね。

それを、自分の意思とは関係なく、突然の体調不良でなすすべなく、手放すことになった、というのが職場を離れた経緯でした。

退職を決めたのは、私の意思でしたが、職場を去ることになったのは、私の意思とは関係ない病気の問題。

そんな私にとって前職は、自分の意思と関係なく手放さざるを得なかった、未練を感じるものでした。


働いている夢を何度も見るものの、もうそんなことは叶わないと、これまでは何度も思ってきたのですが、
「あ、体調よくなったし、また働けるんじゃない?」
と、夢から覚めた朝、寝ぼけた頭で思ったのです。

思ってみたら即行動。

遠くないところで前職と似た求人はないかしら、と探してみたところ、前職の中でも特に好きだった仕事だけをすればいい、好条件の仕事を、検索の上から2番目に見つけました。

そこからは、あれよあれよと、トントン拍子に採用が決まり、お仕事することになりました。


ここまでで働き始めて約4週間ですが、本当に人間関係も良くて、職場環境も良くて、お仕事の内容も楽しくて。
(私に合っているという意味で。一日中パズルを解いている気分です。事務仕事が苦手な人には、すこぶる苦痛だと思います)

「こんな天国みたいな職場があるの?!」
と始まって2週目までは何度も声に出してしまいましたし、
「あー、今日も楽しかった!」
と思って、仕事を終えています。

流石に慣れてきたから、最近は天国とも思わんけど(^^;)
責任ある仕事も任されるようになってきたので、楽しい一辺倒ではなく、緊張感も伴う場面も出てきましたが、それでも本当に楽しいし、仕事ができて幸せです。



ところでですね、私の新しい職場は、広い敷地の中にチャペルがあります。
それでなのかな?とにかく、エネルギー的に、すごく楽なんです。

人はたくさんいるはずなのに、いるだけで疲れる場所では全くなくて、体が軽い。

この感じ、神社にいる時と、似てるんですね。


全く同じとは言わないのですが、
・神社にいる時の感じ
・お寺にいる時の感じ
・職場にいる時の感じ(チャペルのある場所の感じ)

これらに共通する、身心が軽くなる感じがあるのです。


神社の神様と、お寺の仏様・神様って、違うけど、でも近いものと共通するものがあるなと感じていたのですが、
「職場にいくと、体が軽いぞ!」
と気づいてから、
「あれ?神様も仏様も、キリスト教の信仰の対象も、すべて本質的には同じなんじゃないかな?みんな同じものに、感謝して、手を合わせてるんじゃないだろうか?」
と思うようになったのです。

ちなみに、体が軽いことに気づいたのは2日目の朝ですね。
それくらい、はっきりと軽くなるんです。
(初日はバタバタしてたので(^^;) )


それでは祈りの対象と言う意味での、本質は何なのか、というと。
「うーん、光、かな?」
と思ってます。

それはほとんど感覚的に。
私たち自身もそれぞれ光だし、私たちが生まれる前にいて、この世を旅立った後に休む場所も光。
それから私たちが手を合わせている対象も、光なのかもしれません。


ちなみに私、光子ですが、この名前は
「鑑定するのに名前どうしよっかなー」
という時に、神様からいただいたお名前です。

いい名前がなかなか見つからなくて、
「あー、もうどうしようかな…神様!何か教えてください!」
とゴロンとして目を閉じた時に、
天使の梯子の風景と共に、「光子」という字が見えたのです。

まさか神様が名前のことで何か教えてくださるなんて思わずに、出来心で声に出したにも関わらず、でした。

ちなみに「光子」という字面を見て私が思わず言ったのは
「え?みつこ?おばあちゃんじゃん!!(おばあさんっぽいって意味で)」
という言葉でした。

対して神様は
『だったら聞くな!!』
とのお言葉(^^;)


「みつこ?ひかりこ?んーどうしよ?」
とひとしきり読み方は考えたのですが、外国の方にも呼びやすい読みにしようと、後付けで「みこ」という読みの名前に決めました。


神様にはどんな意図や名づけの理由があって、「光子」だったのかはわかりませんが、私は「光の子」という意味しかないと、個人的には思っています。

光の子、です。
私たち人間の本質が光で、還っていく世界も光なので、誰でもみんな光の子なんです。

だから、私は人間なので光の子なのですが、読んでくださっているあなたも、光の子です。
他にも、誰も彼も、みんな光の子です。


よくお客様に、
「みつこさんじゃなく、みこさんだったんですね!」
とのお言葉をいただくのですが、
「どっちでもいいですよ、どちらでも構いません」
といつもお答えするのは、「光の子」であるのが大事であって、読みは私自身もどちらでも構わないからなのです。

言い換えれば、
「私、光子は光の子だし、お客様であるあなたも光の子です。上も下もない、平等で、本質的には同じ存在です」
という私なりのメッセージでもあるとも言えます。


さて、信仰の対象が本当に光であるかは、私の感覚的なものなので、なんとも言えないのですが、昨日、気になっていたチャペルを訪れてみました!

職場に着くと、身心が軽くなる感じから、
「きっと、ほわっと心地良い場所ではないかな?気持ちよく眠れちゃったりするかも」
と予想して訪ねたのですが…


入ってみたら、不思議ー。
天井が高くて、音がよく響く作りで、本当に特殊な音の環境でした。

というのは、さておき、不思議に思った本題は
「うわぉ、エネルギー的に神社にすごく似てるわ!」
と思ったことでした。

チャペルに並んでる椅子の、真ん中より前の方に、しばらく座っていたんですね。

いられる、いられるんだけど、すごくエネルギーが強くて、
「どうがんばっても、ここでは絶対に眠れない!」
と感じる場所でした。

ビリビリとも違う、うわーっ!!と迫ってきて、そして斜め上に抜けていく、絶えることのないエネルギーでした。


神社で、御祈祷を受けている時に、心地よいエネルギーが強すぎて、どうしても瞼が落ちて目を開けていられない時はありますが、ちょっとその感じとは違います。

そして座ってエネルギーを感じながら思っていたのは、
「信仰とか神とか、どうやって形作られるんだろう?どうやって強いエネルギーの存在になっていくのかしら?」
ということでした。

神社も、チャペルや教会も、人が祈るから、だんだんと特別な場所になっていくのでしょうか。
それとも、元々特別な場所なのかな?
とはいえ、私が訪ねたチャペルは、建てられる以前は、きっと普通の場所だったんじゃなかろうか。

そういえば、先日、仏像でいうところの、開眼に近い出来事に遭遇したので、私たちが祈ることが、起動ボタンのようなスイッチになることは、あるかもしれません。

でも祈りを捧げる対象は、私たちが祈ったり、気づく以前から、歴然と存在しているのでしょうし、なんとも不思議です。

こう考えていくと、不思議に思う気持ちは、いつまでも絶えないですね(^^)


そんな最近の近況報告、そして『神様』のことでした(*^^*)



あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。

光子でした。

あわせて読みたい

誰も彼もが大切なひとり

スピリチュアルな人は偉大な人だった?

鑑定のご案内はこちら

講座のご案内はこちら

YouTubeでもお話ししています

Instagram やってます(*^^*)

カテゴリー別もくじはこちら